【モボ朗読劇二十面相感想】心にimaginary○○を飼う【矢花くんおつかれさまです】
モボ朗読劇『二十面相 』~遠藤平吉って誰?~、全13公演、
駆け抜けたァァァァァァァァ、通いきったァァァァァ。
矢花くん始め、演者の皆さん、スタッフの皆さん、この舞台を作り上げるために働いた皆様おつかれ様です。
というのは、もちろんのこと、自分もよく頑張ったと思う。仕事調整したり、プライベートでやらねばいけないこともこなしたり、体調管理も頑張った。自分で自分褒めるわ。不安の中にいた3月末のあの日、この舞台の発表があって、「頑張る!!!」って思ってそこから数週間(主に身体的)につらかったけど乗り越えられた。今は身体も超元気だし。矢花くんありがとーーー。
明日になったら、千秋楽から1週間経過してしまう。千秋楽後1週間以内に感想絶対書きたいと思ってたので今これを書いている。
今回の二十面相期間中、自分の名前より多く聞いた日本語、
1公演につき数十回繰り返されたセリフなので、13公演通したらほんとに100回以上は聞いたと思う。
繰り返し繰り返しこのセリフを聞くと、人の多面性や、何がその人をその人たらしめるのか、とか考えざるをえなくなって、(このブログとかまさにそうだけど)元々そういうこと考えるのが大好きな人間としては「自担の初めての主演舞台が二十面相でほんと良かった!大勝利!」って感じだった。矢花くんも千秋楽の挨拶でそういう主旨の話をしてくれてそれも嬉しかったな。
毎日つけてた備忘録は本当に殴り書きだったから、それらをまとめつつ、自分なりに二十面相を通して考えたことをこの記事で書く!
人は二度死ぬ
これは色んな作品の中でも聞くし、世間的にも結構言われていることだと思うけど、人は二度死ぬ。一度目は肉体的に、二度目は人の記憶から完全に消えた時。ディズニーのリメンバーミーでも、死者の世界からすら完全に消えてしまうトリガーは、生者の世界で誰の記憶からも完全に消えてしまった時とされている。肉体がこの世から消えてしまうことくらい、いやそれ以上に、人にとって誰かの心から消えてしまうことって悲しくて恐ろしいことなんだなあ、とリメンバーミーを見て思った。この世に生きた証を残したいって、言い換えれば、誰かの中に生き続けたいってことだなって。
誰かと一体化したいという願望
二度目の死を迎えないためにもこの世に生きた証を残したいという無意識的な願望が人にはあると仮定すると、社会的な動物として、人が生きている間に自然と持っている本能として、「誰かに興味を持たれたい、誰かに執着されたい、できることならば誰かと一体化したい」っていう願望があるんじゃないかなって二十面相を見て思った。というより、昔から思ってた。
大学で卒論を書いた時、自分の研究テーマのためにある能の演目について研究した時からそういう考えを持っていた。その能を超雑に説明すると、ある女が死んだ後も生前愛した男への未練で成仏できなかったけれど、その男の着物を着て舞うことでその男と一体化したかったという想いを昇華できて無事成仏した、っていう話。すごく切なくてでも綺麗で、人の根源的な欲求がシンプルに描かれていてとても好きな話。
そして、「推し、燃ゆ。」を読んだ時もこの能の演目を思い出したんだよね。
meromero887days.hatenablog.com
(↑の記事より抜粋)
主人公の応援スタイルは自分と真逆で全く共感できないのだけど(別にそういう人を否定してるわけでなくただ自分はできないというだけ)、根底にある”自分なりに推しを解釈したい、何を考えてそういう言動をするのか知りたい、一体化したい”という気持ちは、よくわかる。何故なら自分も自担に対してだけはそう思うから。
矢花くんの見た目も、音楽に関する知識や能力も、他人に対するその場しのぎではない優しさも、自意識過剰じゃないのにちゃんと自分に誇りがあるところも、言葉選びのセンスも、書ききれないほど好きなところはあって、一言で言うと、「矢花くんの魂」に惚れ込んでる。そして彼の色んな特性が、まさに自分が昔から自分にインストールしたいと思ってる特性だから、「推し、燃ゆ。」を読んだ時の主人公の自分なりに推しを解釈したい、何を考えてそういう言動をするのか知りたい、一体化したい”という気持ちには勝手にすごく共感した。
だからこそ、そういう気持ちで誰かを好きになるときに、忘れちゃいけないのは、
「その人も一人の人間」「その人だけでなくこの世の人間は皆他人」
ってことだと思ってる。
誰かを愛する気持ちをつきつめるとそれは「その人と一体化したい」という本能であり、でもその本能があるからといって誰かを私物化していいわけではないので「家族でも恋人でも他人」という愛ある理性も持ち合わせてないといけない、と思って自分は生きてる。
”コンテンツとしてでなく自担という人間自体を愛すためのケジメ”として、くん付けしたいと書いたけど、まさにこの「推し、燃ゆ。」の主人公のように「無自覚に自担との境界線を取り払って一体化しないため」なのかなと、この本を読んで自分なりに分析した。”自分なりに推しを解釈したい、何を考えてそういう言動をするのか知りたい、一体化したい”んじゃないんかい!!!!って突っ込まれそうだけど、あくまでそうしたいって気持ちを持つと同時に”自担も含めこの世の人間はみんな他人”という気持ちを持つことも大事と思ってるからこそ、”くん付け”することで自分なりにケジメをつけてるんだと思う。
(※くん付けしない人はそういう分別ができていないと言いたいわけでなく、あくまで自分はくん付けすることでケジメをつける人間というだけの話。みんな好きに呼んだらいいと思うし、こんなこと考えてる自分めちゃめんどいなという自覚はある。)
舞台の中で、何度も繰り返されるこのセリフ。そしてこのセリフの補足的説明や演出が舞台中に度々なされていたと思う。例えば;
・二十面相が使う犯罪手法をひたすら演者が羅列していくシーンがあるけど、二十面相が使っている手は明智も使っている。前者は非難され、後者は絶賛されるが、パンフレットにもあった通り、犯罪者側か犯罪者を捕まえる側かだけの違い。
・冒頭で二十面相が歌う歌を、途中明智も二十面相の低音の声色を交えて歌う。二人が別々の人間じゃなくて一人の人間であるかのように錯覚させるような演出。
・お互いが考えそうなことをお互いだけが理解していて、小林少年ですら入り込めない二人の世界が確実に存在する。そして小林少年は、第二の明智であり、第二の二十面相である、どちらにもなりえるという説明がされる。
二十面相は新聞社に自分の予告状を載せて欲しいと投函するけど載せてもらえることはなく、二十面相がアンチヒーローに徹すれば徹するほど、明智はどんなメディアの取材も受けてヒーローに徹した。周りから見たら、正義のヒーローと完全な悪役という正反対な二人であり単純に二分化されてるけれど、ふたりだけの世界の中ではふたりはどこまでも同じ性質を持ち合わせていて、それが故にお互いの考えていることが手に取るように分かる。
人が持つ(と私は思っている) 「誰かに興味を持たれたい、誰かに執着されたい、できることならば誰かと一体化したい」っていう願望を、この二人はお互いで満たしてるんじゃないかなって思った。
明智に敗北することで永遠の勝利(命)を手にした二十面相
冒頭で二十面相が「私は絶対に負けない、いつだって私が勝つ」と言うセリフがあった。その割に、ほぼ毎回明智に捕まるじゃん、明智に負けまくってるじゃん!と毎公演思っていたけれど、↑で書いたようなことを悶々と考え始めてから見方が変わった。
最後の地下室のシーン、二十面相は明智に追い詰められ逃げ場を失い、自分で用意した火薬を爆破させて死ぬ。(※本当に死んだかは所説あるがこの舞台では一応ここで死んだことになってる)
明智は二十面相のことをずっと「人殺しはしない、そこは関心する」と評価していたけど、この地下室のシーンで二十面相からそれは間違った理解だと否定される。そして焦る明智。
二十面相は「明智は無意識に死の匂いを遠ざけて、二十面相と自分は命の駆け引きはせず、インテリジェンスだけで渡り合ってると思い込んでた」と明智に指摘する。
私にはこのシーンで明智が言葉を失うほどショックを受けているように見えて、その理由は何だろうって考えた時に「自分も二十面相も同じ度合いでお互いを理解し合ってると思っていたが二十面相が明智を理解してる度合いが高かった」のがショックだったんじゃないかなと感じた。捕まる、捕まえる、で本当の勝ち負けが決まるのではなく、どちらがより相手にちゃんと執着して理解して一体化できているか、で二人の意味する勝ち負けが決まるのかなと。
最初の方のシーンで、二十面相は「俺はお前(明智)にしか興味がない、いつもお前のことだけを見てお前のことだけを考えている。」というセリフがある一方で、明智は「俺は違う。俺の目的はお前以外にもあり、他にもやることがある。」と言い放つ。これが伏線となって、ちゃんと相手に執着して理解しようと努めて、相手の心に強烈な生きた証を残せたのはどちらなのかと考えたら、そういう意味で勝ったのって二十面相だよね、と最後の地下室の爆破シーンを見て思った。
物理的に追い詰められて逃げ場を失って火薬爆破で自殺した二十面相は、第三者から見たら“負け”の最後だったように思えるけど、二人の世界の中では↑に書いた理由で明智が“負け”たんじゃないか、肉体的な死を迎える前に明智に強烈な敗北を味合わせることで永遠に明智の心の中に生き続けるという勝利(永遠の命)を手にしたのではないか、と考えた。
矢花くん演じる明智が常軌を逸した笑いを会場中に響かせて終わるこの舞台、あの最後のシーン、最初のシーンでは明智の台詞だったはずの台詞をあたかも二十面相が話しているかのように演出されていたけれど、それって二十面相が↑に書いたような肉体的な死を迎えて明智の中で永遠の命を得たことで、最終的に二人が完全に一体化したことを表してたんじゃないのだろうかと13公演を通して感じた。(もちろんこれが正解のはず!って意味ではなくて自分なりにそう解釈したというだけの話)
一体化したからこそ、それまでの二十面相・明智それぞれ別の人生が、二十面相の「俺の墓場じゃない、俺たちの墓場だ」というセリフの通り終わりを迎え、そこから一体化した一人の人間としての人生が始まったのかな、と。
理想の自分を頑張って演じてる時の自分だって本当の自分の一部のはず
ここまでは自分なりに考えた二十面相論なんだけれども、その解釈を自分の生活に当てはめてみた時、「周りに求められている自分(明智の場合は正義のヒーロー)を演じてる時の自分は本当の自分ではないのだろうか?」ということ。自分としては、答えは否だなと思った。
よく「自分探し」とか「周りの期待してる自分は自分じゃない」とか言うけど(矢花くんも侍ふvol.006で“自分の思う自分と世間の思う自分の乖離を無くしたい”って書いてたね)、自分としてはそうやって頑張って周りの期待に沿って演じてる自分だって自分じゃんって思うんだよね。だからもし自分に二十面相くらい自分に執着してくれる人がいて、そしてその人に自分の心の中に強烈な焼け跡を残されたまま去られたとしても、そこからの人生を“本当の自分を分かってくれる人はもういない”と諦めて(仮)人生のように生きたくないなと思う。人生何があるか分からなくて、信じられないくらい辛い喪失もあるかもしれないけど、それでも肉体の命ある限り誰にも人生を乗っ取られたくないし自分として生き続けたい。
meromero887days.hatenablog.com
↑の記事でも書いたけど、失うことで得るエネルギーもあるということを忘れたくない、と改めてこの舞台を通して思った。
心にimaginary〇〇を飼う
↑でカッコつけたこと書いたし、人は結局は一人だから何があってもちゃんとリカバリーして生き続けたいとは思っているけど、自分にももちろん無意識に「誰かに興味を持たれたい、誰かに執着されたい、できることならば誰かと一体化したい」っていう願望があるんだろうなとも思う。
だからといって、生身の誰か(家族や恋人、時には好きなアイドル含む)を私物化して、「〇〇しか本当の自分を理解してくれる人はいない!」と思い込むのってすごく危険だと思っていて、それについての自分の見解は前に↓の記事で書いた。
meromero887days.hatenablog.com
心の恋人(imaginary)と現実の自担(reality)でギャップがあるとロスが起きる、という話なんだけど、その二つをごちゃ混ぜにするから何かあった時に混乱したり勝手に失望するのであって、imaginary〇〇を心の中に飼うこと自体は何も悪いことじゃないと思う。現実の誰か(reality)を私物化して、その誰かが自分の思う通りのことをしてくれないからといってストーカーしたり誹謗中傷したりしてしまうのって、相手も自分もその周りの人も誰も幸せにならない。
一方で、自覚的にimaginary〇〇を心の中で飼うのであれば、自分の心も救えるし、現実世界で誰にも迷惑をかけない。二十面相と明智のような世界を必ずしも誰もが現実の誰かと築けるわけではないし、築けたところでいきなりその世界を失うことだってあるわけで、失った後もそれぞれの人生は続いていくわけで。
「所詮は他人」って冷たいように感じるけれど、自分がいなくなったとしても相手に幸せに生きていて欲しい、自分だって幸せに生きていきたいと思うからこそ、自分が大事にしてるルールなんだよね。そういうことを改めて考えさせてくれた舞台だった。
以上、自分なりの二十面相論!
この舞台を矢花くんが主演という形で13公演も観れたこと、今だって人生の財産だけど、今後の人生で矢花くんを失う時が来たとしてもずーーっと財産で有り続けるだろうな。
矢花くん大好きという気持ちがまた強まり、矢花くんを好きになる感性を持ってる自分も最高、と思えた9日間だった。
(せっかく矢花くんが作ってくれた、#矢花黎に物申す、タグを初めて使ってみようと思う。物申すなんて恐れ多いな~~と思って今まで使えなかった。)
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